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その出生の詳細は不明であるが、京都の呉春の最古参の門人であり花鳥、山水など初期四条派の系統を受けついでいたが、呉春の没後は住所を四条東洞院から嵯峨野天龍寺門前に変えて他の門下とは一線を画した仏画師として一家を成す。 また、入道したとする伝は残っていないが観音大士堂を設立して読経、生涯妻子無し、不殺生に努めたとの記述が残り仏画師転身を前後して仏道に精進した生活を送ったとされている。 尚、高野山龍光院の障壁画を揮毛。
〔落款名〕 「廣成為」 「東暉紀廣成」 など 〔印 名〕 「紀廣成」(「紀広成」) 「廣成」(「広成」) 「菩提」 「東暉盦」(「東暉庵」) など
〔市場評価〕★★
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